医薬品の事業性評価の理論と応用
事業性評価の目的と意義
医薬品の事業性評価の特徴と注意点(4)
国際医薬品情報
2023年4月10日〈通巻第1223号〉
医薬品の事業性評価の特徴をこれまで何度かにわたって論じてきたが、ここでは医薬品の研究開発における特徴のうち、事業性評価やその方法に影響を与え得る二つの要素について論じてゆきたい。その二つとはすなわち、製品ライフサイクルの長さと「リスク」の大きさとについてである。この二つの要素は互いに相まって医薬品のビジネスにおける固有の課題を形成している。ここではそれぞれの要素の性質を考察し、その関連性についても合わせて議論してゆきたい。
医薬品の製品ライフサイクル
医薬品の製品ライフサイクルという言葉が用いられる文脈は、およそ以下のようなものであろう。
- シーズから発売までの期間が長いこと
- 新薬の発売前後から、市場拡大期、成熟期、後発品参入後の長期収載品化後といった、製品の販売における各段階でのリソースアロケーション
- 適応追加等による製品の特許切れ後、再審査期間終了後の後発品の参入の阻害、製品の延命戦略(いわゆるライフサイクルマネジメント戦略)
先ごろ発表された医薬品産業ビジョン20211においても、医薬品の「ライフサイクル」という言葉は、医薬品業界における絶え間ないイノベーションによる創薬力の強化のために、研究開発の加速とともに特許期間を満了した医薬品については速やかに後発品への入れ替え若しくは長期収載品である先発品についても安価に供給してゆくことが求められている、という文脈の中で使われている。
Time to market
医薬品の製品としての最大の特徴の一つであると言えるのは、製品のアイディアが生まれてからそれが製品として発売されるまでの時間が極めて長いということであろう。KPMGのレポート2によれば、確かに医薬品は他の産業分野の製品などと比較してもこの期間が長く、9年から長ければ19年かかるという。自動車で3~5年、スマートフォンで3年等と比較してもそれは際立っている。このようにアイディアから市場において製品が発売されるまでの時間はTime to market (TTM) などと呼ばれる。
TTMが長いということは、製品開発に着手してから製品を発売するまでが長く、すなわち最初の投資を行ってから収益が見込めるまでの期間が長いことを示している。このことは医薬品の事業性に対してどのような影響があるだろうか。
一つには、貨幣の時間的価値による効果が、他の分野の製品よりも大きくその事業性に反映されることになる。貨幣の時間的価値とは、貨幣が持つ価値は未来へと時間が進むに従って相対的に小さくなるという概念を示す言葉である。このような効果が生じるのは、貨幣は投資することによって利息を得ることが期待できるからである。例えば、現在100,000円を受け取ることと、1年後に100,000円を受け取ることができる約束手形を貰うことを選ぶことができる場合、自然な選択として前者を選ぶであろうが、それは現在受け取った100,000円はすぐにでも例えば金融機関に預けることによって、1年後には利率に応じた利息を得ることが期待できからである。仮に年利が3%だとすると、3,000円の利息が得られる結果、金融機関の口座の残高は103,000円となるはずで、その分だけ100,000円の約束手形よりも価値が高いことになる。従って、一般的に、今日のお金は明日の同額のお金よりも価値があると言えそうである。
そうだとすれば、明日のお金よりも明後日のお金の方が価値があるとも言えそうであり、すなわち、受け取りの約束までの時間が長ければ長いほど、約束手形の価値は相対的に下がってゆくことになる。TTMが重要なのはこのためであり、これが長ければ長いほど、受け取る予定の金額の額面に対してその受け取る約束の価値は低くなってゆくと考えられるのである。従って、特に開発品の事業性評価においてはこのことに特に留意しておかなければならない。
不確実性と研究開発費
TTMの長さに関連してもう一つ重要なことは、それが長ければ長いほど、その間に起こる事業環境の変化の頻度が高くなり、またその変化の程度が大きくなると考えられることである。これは、医薬品産業のような規制産業の場合は特に重要であり、その変化する外部環境の中でもわが業界に典型的なものとしては薬価制度が挙げられよう。医薬品産業ビジョンの中でも、「薬価制度等における透明性・予見性の確保」という文脈の中で、「2016年度の市場拡大再算定特例の導入と薬価制度抜本改革の基本方針の決定以降は、比較的厳しい内容の制度改正が重なり(中略)製薬企業にとっては、研究開発段階では想定されなかったものであり、日本市場の魅力と予見性が損なわれる」との記載があるが、このビジョンが作成されたのは2021年9月であり、5年も前に導入された政策に対して未だに業界として対応できていないという事態は、他の多くの産業分野においては考えられないことではあろうが、これなどはまさに医薬品のTTMが長いことが、外部環境の変化に対して感受性が高いということを示している好例であろう。すなわち、TTMが長いことによって事業の見込みに関する不確実性が相対的に高まると言えそうである。こういった不確実性を引き起こす要因としては、以下のようなものが考えられるだろう。
- 薬価制度の変更
- 薬事的要求事項の変更
- 競合製品の状況の変化
- 標的疾患の治療パラダイムの変化
貨幣の時間的価値の影響と、事業環境の変化の影響とは、医薬品のTTMが長いことが明示的に医薬品の事業性に対して与えているような影響であると言える。一方、こういった直接的な影響が経営判断上問題になるのは、このTTMの間に行われる研究開発に大きな費用が必要となるためである。実際に研究開発費の大きさは、医薬品産業の大きな特徴となっている。ニューヨーク大学スターン経営大学院のAswarth Damodaran教授が集計し公開している業界別のコーポレート・ファイナンスおよびバリュエーション指標3によれば、医薬品産業およびバイオテック産業の2022年1月時点での研究開発費の対売上げ高率は他の産業部門を大きく引き離して1位と2位とになっている。
貨幣の時間的価値の影響と、事業環境の変化の影響とは、この研究開発費の大きさからくる経営判断の難しさを増強するように作用する。貨幣の時間的価値との関連では、研究開発費は製品からもたらされる売上げよりもはるか以前に発生するために、製品の事業性評価においては、売上げの現在価値は同じ金額の研究開発費の現在価値(の絶対値)と比べてより小さくなる。すなわち、先行して大きな出資が必要になるわりには、後からもたらされる収入はより小さく見えるということである。一方、外部環境の変化という文脈では、直近の研究開発費は確実に発生するが、将来の収入の大きさは不確実性が高いということなので、これらを合わせると医薬品のTTMが長いことは、研究開発費が相対的にも絶対的にも大きくて確実にかかるのに対して、収入はより小さく、不確実性を高めるように作用するということになる。従って、医薬品がビジネスとして成り立つためには、他の産業と比べても相対的に大きな収入が、予め見込めなければならないということになる。
製品ライフサイクルとステージ
さて、既に議論したように、医療用医薬品はその製品としての効用が機能的価値の側に高度に集約されているために、特許切れなどの明確なイベントによってライフサイクルにはっきりとした輪郭が概念できる。医薬品の特許は最長で25年間にわたるために製品のライフサイクルも四半世紀に近い長さとなりえ、これが医薬品のライフサイクルが長いと言われる所以である。医薬品の製品ライフサイクルは、特に収益性との関連で以下のような4つのステージを概念できる。
開発期
新薬が創薬されてから発売されるまでの間の期間であり、time to marketそのものである。この期間では化合物をライセンスして対価を受け取るなどの特別な状況が招来しない限りは収益は無い一方、研究開発費や発売準備のための販売費及び一般管理費などの費用のみが発生するためプロジェクトは持続的な赤字となる。開発期の他のステージにない特徴としては、後ほど述べる開発中止のリスクがある。このリスクは当初は非常に大きく、つまり段階がアーリーな時には開発中止となる確率は高いが、臨床開発の進捗に基づいて段階的に小さくなってゆき、やがて発売されると原理的にはリスクはゼロになる。
導入・拡大期
新薬が発売されてからその売上げがピークに到達するまでの期間である。余談であるが、医薬品業界では新製品が発売されることを「上市」ということもあるが、これはいわゆる業界用語のようだ。この間には新製品の普及を促す営業活動が重要となるために販売費及び一般管理費、特に多くのMRを配してプロモーション活動を展開してゆくために人件費が極めて大きくなる。医薬品の場合は、優れた新薬が発売されたとしても既存薬の治療で満足している患者が切り替わりにくく、また十分な使用実績があることが薬剤選択のきっかけとなることが多いために、新製品が浸透するのには他の産業分野の商品と比較しても長い時間がかかると考えられる。
成熟期
製品の売上げがピークを迎えてから、特許切れまでの期間である。ここで特許切れと言っているのは当該製品のジェネリック製品が発売されるタイミングのことであり、特許のない医薬品の再審査期間の終了時などを含む便宜的な表現であることを留意されたい。この時期は、なるべく売上げを維持しながら費用の削減を計り、利益率を向上させることが製品戦略の中心となる。プロモーション活動は縮小され、人員は削減されてゆくが、医薬品の新製品が浸透しにくい理由と同じ理由によって患者の切り替えは起こりにくく、また特に新薬創出加算が付与されている場合には薬価がそれほど大きくは切り下げられないため、数量・金額ともに売上げは維持される傾向にある。従って、製品ライフサイクルの中でもっとも大きく利益を確保できる期間である。製薬企業はこの期間をなるべく長くすべく、製品の売上げピークを早め、特許切れを遅くする動機が働く。
長期収載品
ジェネリック製品が発売されてからの期間である。この期間の医薬品はジェネリック製品による競争に晒され、また薬価も著しく下げられるため、数量・金額ともに売上げが減少する。なお、「長期収載品」という言葉も医薬品業界の業界用語であり、ジェネリック製品が発売された後の医薬品のことを指す。英語ではb branded drugといい、かつて日本の医薬品市場では医薬品の特許切れ後も製品の売上げを維持すべく、製薬企業はプロモーションをかけて長期収載品のブランド価値を維持しようと試みたために、この表現は大変に的確である。既に議論したように、ブランド価値の維持は製品の機能的価値を情緒的価値に転換することによって製品のライフサイクルを伸ばそうという試みであり、かつては医薬品のライフサイクル・マネジメント戦略は後発品対策と同義であった。
しかし、2010年代に入って次々と打ち出された後発品使用促進策によって長期収載品のブランド価値の維持が困難になってくると、特にいわゆる創薬研究開発型を自認する多くの製薬企業は、非成長部門である長期収載品は、他社への承継などによって自社の事業からの切り離しを行うようになってきている。また当局の方も、特に後発品使用促進策の一丁目一番地とでも言うべき長期収載品の薬価制度改革の制度設計そのものに、長期収載品のビジネスにおいては製造側が大きな営業利益を計上することを許容しないという姿勢を明確に語らせている。一方、主に長期収載品(およびそのジェネリック製品)の供給不安への対応として基礎的医薬品制度や不採算品再算定などの施策が取られており、長期収載品の薬価は全体として企業の収益と安定供給とのバランスを取るような政策となっており、特許切れ前の医薬品が製薬企業の研究開発促進、以て医薬品産業の振興とのトレードオフとなるような薬価政策を採用していることとは対照的である。
この製品ライフサイクルの各ステージごとの特徴を示したのが表1である。ここに示されているように、製品は各ステージごとに必要となる費用や獲得できる売上げが大きく異なり、従って期待できる利益の大きさも違う。また、製品が成熟するにつれ、製薬企業が株式市場から期待される成長に対して減速的に作用し始めるようになる。医薬品に特許という有限の期間が定められている以上、全ての製品は最終的には長期収載品となり、製薬企業の成長を鈍らせる。従って、製薬企業が株式市場の期待通りの成長を続けてゆき企業価値を維持してゆくためには、自らの製品が長期収載品となってしまう前に別の製品を発売してゆく他はない。
1厚生労働省:令和3年9月13日, https://www.mhlw.go.jp/content/10800000/000831973.pdf
2KPMG 2015, https://assets.kpmg/content/dam/kpmg/pdf/2015/10/remaining-competitive.pdf
3http://www.damodaran.com: 2022年11月17日確認